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2009年2月13日 (金)

平群谷の古墳を訪ねる

飛鳥里山クラブ歴史サークルの2月例会で、平群谷の古墳を探訪しました。
地元メンバーOさん、平群ボランティアガイドのMさんの案内です。

竜田川駅集合
→烏土塚古墳→柿塚古墳→石床神社旧社地→消渇神社・石床神社→西宮古墳→平群神社→長屋王墓→吉備内親王墓→紀氏神社→三里古墳→平群駅解散

烏土塚古墳  西側からの全景です
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(続き 2月19日記載)

竜田川駅集合、生駒山側に小高い丘が見えます。
烏土塚古墳です。
住宅街の坂道を登ります。
時計回りでぐるりと回りこみ、西側から古墳に登ります。
かなり急な坂道です。
後円部頂上からは、周囲が展望できます。
ボランティアガイドさんから、平群谷の古墳群についての概説をお聞きしました。
石室を開けていただき、石室内に入ります。

烏土塚古墳
平群谷最大の前方後円墳(北向き 南北長60.5m 6世紀後半)
Rimg7853w800後円部頂上に登る
Rimg7834w800平群谷解説中
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南側に横穴式石室が開口
両袖式石室で内部は広い 石舞台古墳に匹敵する巨石古墳です
Rimg7847w800組合家形石棺
Rimg7846w800石室奥の上部
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釣堀の周りを回り、信貴山への道を進みます。
右側に小高い丘。古墳で、中世には信貴山城の砦があったとか。
道沿いの左高台に登ります。
草陰に狸穴のような小さな穴。
柿塚古墳です。
腹ばい後ろずさりで穴の中に入ります。
石室内は結構広い。
土砂に埋もれた石棺の上部が姿を見せています。

柿塚古墳
円墳 径30m
6世紀前半
南西向きの横穴式石室 左片袖式

1人づつ潜り込む
Rimg7858w800穴に入る
Rimg7859sw800出るのも難事
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アーチ式石室です
Rimg7861w800石室奥の下部
Rimg7863w800土砂に埋もれた石棺
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伊文字川を渡ります。
この上流域には、花崗岩の巨石が多数露出しており、烏土塚古墳や西宮古墳の石室はこのあたりの石が使われているそうです。

巨石の前に鳥居、式内社石床神社の旧社地です。
祭神は剣刃石床別命(けんじんいわとこわけのみこと)、崖面に露頭した高さ約6m、幅10数mの巨石を神体としています。
ヒミコがこの陰石の前で祈祷したとか。
大正13年、集落内のスサノオ神社(現 石床神社)に合祀されました。

石床神社旧社地
Rimg7878w800巨大な陰石 樹木が覆っています
Rimg7870w800説明板
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石床神社旧社地前の展望
平群谷は菊など花卉の産地です
Rimg7879w800道には寅の印
Rimg78801w800この印は何かな
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石床神社旧社地を道なりに北上すると、消渇(しようかち)神社です。
本来は地域の産土神である正勝(まさかつ)の神として祀られていたそうです。
室町時代に、旅の僧信海が腰の病を治してもらってから、下半身の病気に御利益があるとして信仰されるようになり、正勝を重箱読みし同音の消渇に転じたとのことです。
土団子12個作ってお願いすると腰から下の病に効果があると信仰され、江戸時代には、大坂、奈良、京都方面より芸娘や遊女などの信者が列をなして集まり、参道には茶店が出るほど賑わったそうです。
病が治ると、お礼として米団子12個をお供えします。

消渇神社
Rimg7892w800銘は甑塚大明神
当地は越木塚です
Rimg7893w800土団子のお供え
米団子もありました
本殿は流造一間社
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消渇神社境内には、入口の一等地に石床神社、一段高い所に七社神社があります。
七社神社本殿は春日造、祭神は?
石床神社の祭神は、劔刃石床別命(石床の神)、太玉命、素戔嗚命です。
大正年間に素戔嗚神社に集約された石床の神が中殿で、本来の祭神素戔嗚命が左殿です。
境内には、中殿の「祭神は創立舒明天皇3年には饒速日命で、消渇神社は分霊を祀る社だった」との古い由緒記もありました。

石床神社
Rimg7885w800拝殿
Rimg7895w800覆屋内に本殿
中殿流造、左右春日造
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剣上塚古墳を展望し、平群中央公園に向かいます。

剣上塚古墳
Rimg7902w8005世紀後半
竪穴系横口式石室


平群中央公園は、廿日山丘陵の弥生遺跡西宮古墳などの古墳、中世の城跡などを取り込んだ地区公園です。
南方に、栗塚古墳、その先に、烏土塚古墳が遠望されます。

栗塚古墳
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西宮古墳
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7世紀中葉から後半の築造の三段築成の方墳(一辺約36m)です。
南に開口する横穴式石室で、石室は、美しく削られた切石を組み合わせた1段積みです。
玄室の天井、奥壁、側壁は1枚石です。
玄門部に、竜山石(たつやまいし)製の刳抜式(くりぬきしき)家形石棺身部が盗難を免れて残っています。

南に開口する横穴式石室
Rimg7915w800刳抜式家形石棺
Rimg7912w800石室内から
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平群中央公園
Rimg7920w800梅が咲いていました
Rimg7917w800ツクシも
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廿日山丘陵南側に平群神社があります。
祭神は大山祇神。
西宮大字の氏神ですが、名称から、古代豪族平群氏の祖神を祀った神社だったのでしょう。
西宮は、東に宮があっての西宮ですが、このあたりに、古代、どのような宮があったのでしょうか、また、東方の宮は、直ぐ東の斑鳩宮?、それとも、雄略天皇の泊瀬朝倉宮?(平群氏は雄略朝の大臣だった)、さらに時代を遡り、ヒミコの宮だったのでしょうか。

式内平群神社
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Rimg7927w800銘木の由緒記
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廿日山丘陵北東の安養寺のあたりには瓦窯跡があり、藤原京の瓦が焼かれていたそうです。

竜田川
下垣内橋
Rimg7937w800川沿いにウメの花
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平群駅を越え、近鉄線を渡り、すこし北上すると、長屋王墓、その北西の高台に吉備内親王墓があります。
吉備内親王墓の宮内庁の肩書き表示は「天武天皇皇孫長屋王妃」、墓前の石碑は「岡宮天皇皇女」となっていました。

長屋王墓
Rimg7943w800吉備内親王墓への登り口
Rimg7946w800吉備内親王墓
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吉備内親王墓を北に抜け、北上すると、平群坐紀氏神社です。
「平群に鎮座する紀氏の氏神の社」で、紀氏もしくは平群氏の末裔である紀船守が、祖神の平群木菟宿禰(へぐりのずくのすくね)を祀った神社です(紀氏と平群氏は同族関係にあり、共に武内宿禰を祖とする)。
藤原氏の全盛期に、春日の神を勧請させられ、春日神社と改称させられたが、元の名称に復しました。
紀氏神社はここだけだそうです。
現在の祭神は、平群木菟宿禰、天児屋根命、天照大神、八幡大菩薩。
近くに辻があったことから、辻の宮、また、元々、現在地より2kmほど南の「椿井」にあったことからか、椿の宮とも呼ばれていました。

境内には地元大字の3つの座小屋が拝殿を囲むように配されています。
北が上庄(かみしょう)大字、南が西向(にしむかい)大字、拝殿と相対する西側が椣原(しではら)大字の座小屋で、中世、役人が同席する椣原大字の座小屋のみ高床となっています。

平群坐紀氏神社
Rimg7952w800境内 3つの座小屋
Rimg7963w800拝殿
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説明板
Rimg7953w800春日造本殿
Rimg7956w800境内社 春日神社
鳥居は1697年寄進
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国道168号に出て、すこし南下し、東へ坂道を登ります。
三里古墳です。地図でみると、国道を挟んで、長屋王墓とほぼ対称の位置です。
矢田丘陵より西に延びる尾根上に築かれた古墳で、墳丘は削平され、周囲が耕作地化しているが、発掘調査により、全長35mの前方後円墳もしくは直径22mの円墳(6世紀後半)と考えられています。
石室は両袖式。
玄室奥壁の床よりに奥行き1.5mの板石による棚が架せられています。
石棚のある横穴式石室の古墳は、紀ノ川下流域に多く、奈良県下では三里古墳を含めて3例のみ、他の2基は吉野川(紀ノ川)流域、下市町岡峯古墳と大淀町槙ヶ峯古墳です。
近くに紀氏神社があることでもあり、この地域と紀氏とは密接な関係があったものと推測されます。

三里古墳
Rimg7968w800説明を聞く
Rimg7964w800説明板
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平群駅に戻り、解散。

ドアtoドアで、15千歩。
徒歩距離はそれほどでもなかったが、起伏があり、けっこう疲れた。

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コメント

古代ロマン大好きです。
とっても興味深いです。

投稿: 和世 | 2009年8月27日 (木) 22:31

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