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2010年9月の25件の記事

2010年9月28日 (火)

9月28日 春日山遊歩道~若草山 散策

なら歩楽歩楽会で、東京からの客人の参加を得て、シニア7名で、春日山遊歩道から若草山を散策しました。
近鉄奈良駅11時半集合。
東向き商店街で昼食を済ませ、出発。
猿沢の池、興福寺の会津八一の歌碑に立ち寄り、若草山南山麓から春日山遊歩道を登りました。

より大きな地図で 20100928若草山 を表示 

新公会堂から春日山遊歩道にかけて
春日大社末社
浮雲神社
Dscn3733愛宕神社
Dscn3735聖明神社
Dscn3737
春日大社摂社
水谷神社
Dscn3739

春日山遊歩道を登ります。
Dscn3743道標
Dscn3746眼下に月日磐
Dscn3747

Dscn3753若草山ドライブウェイに合流
もうすぐ頂上
Dscn3759

若草山山頂
Dscn3778

後方 鶯塚古墳
Dscn3780

山頂からの展望  平城ニュータウン方向
Dscn3774

鶯塚古墳後円部頂上
Dscn3773鶯陵碑 右後方 三角点
Dscn3770享保18年(1733)
「平城坂上墓」とある
Dscn3771

史跡鶯塚古墳碑
Dscn3767説明板
Dscn3766鶯陵碑の銘によると、
江戸時代には、
磐之姫命陵とみなされていたようです

若草山を下ります
Dscn3786中腹2段目からの展望
Dscn3784

若草山山麓
野上神社
新春山焼きの火付け神事の行われる神社です
Dscn3789地蔵岩
Dscn3792山頂にあったのを、明治35年に野上神社の傍らに移設したとか

東大寺法華堂、二月堂、大仏殿を巡り、帰路、取り壊された日吉館から飛鳥園に移設された会津八一歌碑に立ち寄りました。

法華堂(三月堂)
Dscn3795二月堂
Dscn3798二月堂から大仏殿へ
Dscn3799

飛鳥園 会津八一歌碑
Dscn3812かすがの の
よ を さむみ かも
さをしか の
まち の ちまた を
なき わたり ゆく
(春日野の夜を寒みかも牡鹿の
 街の巷を鳴き渡りゆく)

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鶯塚古墳

若草山山頂に、全長107mの前方後円墳があります。
鶯塚古墳です。

若草山山頂
後方 鶯塚古墳
Dscn3780

鶯塚古墳後円部頂上
Dscn3773鶯陵碑 右後方 三角点
Dscn3770享保18年(1733)
「平城坂上墓」とある
Dscn3771

史跡鶯塚古墳碑
Dscn3767説明板
Dscn3766鶯陵碑の銘によると、
江戸時代には、
磐之姫命陵とみなされていたようだ


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2010年9月27日 (月)

9月22日 采女祭

中秋の名月
猿沢の池の畔の采女神社の祭りです。
八木近辺を散策後、5時過ぎに近鉄奈良駅に着きました。
東向き商店街で祭りのパレードに出会いました。
「花扇祭」というんですね、初めて知りました。

パレード先頭
提灯に「うねめ神社 花扇祭」
Dscn3638
Dscn3641花扇
Dscn3642

福島県郡山市のミス采女
Dscn3645
Dscn3647
Dscn3648

三条通り 
前方右 采女神社
Dscn3651

夕闇せまる猿沢の池
17:40 池の周りは見物客でいっぱいです
Dscn365417:49 衣掛け柳
Dscn366117:59 右前方 興福寺五重の塔
Dscn3664

18:01 19時周航を待つ管絃船(鷁首)
Dscn3665管絃船(龍頭)
Dscn3666
Dscn3667

19時、2隻の管絃船の周航です。

19:07
Dscn3679

19:16
Dscn3687

奈良時代に帝に仕えていた采女が、帝の寵愛が衰えたのを嘆いて猿沢池の池畔の柳に衣を掛け、入水したという伝承があり、その霊を慰める伝統行事。
管絃船周航を待つ間、郡山の采女伝説を紹介していた。
采女出身地郡山での伝承では、陸奥の国安積の里(現・郡山市)から召された采女春姫は、帝の蘢愛を受けていたが、仲秋の名月の日、別れさせられた許嫁次郎恋しさに猿沢の池畔の柳に衣をかけ、入水したように見せ、愛する次郎の待つ安積へ向かった。里へたどりついた春姫は、次郎の死を知り、雪の降る夜、あとを追って次郎と同じ山の井の清水に身を投じた。
郡山の采女伝承のほうが、もっともらしい。
→郡山うねめまつり > うねめ伝説 http://www.ko-cci.or.jp/event/maturi/uneme_densetu.html

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2010年9月 庭のヒガンバナ

今夏の猛暑でヒガンバナの開花が遅れているようですが、
彼岸が近づいてくると、芽生え、
2本だけですが蕾が急激に伸びてきました。

9月21日 ヒガンバナ
Dscn3620シロバナヒガンバナ
Dscn3623

そして、秋分の日23日には1本の一部が開花し、24日にようやく開花。

9月24日 開花 1本だけですが
Dscn3692
Dscn3693

例年に比べると、さびしい彼岸。
⇒昨年 9月21日 庭のヒガンバナ 開花

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五社神古墳

Img019五社神(ごさし)古墳
神功皇后狭城盾列池上陵(じんぐうこうごう さきのたたなみのいけのえのみささぎ)
前期後半築造
北から延びる尾根の先端部を切断して造られた丘尾切断型の前方後円墳。
全長 275m。後円部径195m、前方部幅155m。後円部と前方部の高低差7.5mで後円部が高い。周濠は鍵穴型、南北の高低差があるため6ヵ所に渡土手状の堤防を築き階段状になっているが、文久の修陵に築造された可能性が高く、古墳造営時には存在しなかったと考えられる。
拝所内には、8基の燈篭が置かれているが、これらは、文久年間(1861~1864)に神功陵として治定されていた陵山古墳にあったものを移設したもの。
埋葬施設は不明だが、幕末の盗掘事件捜査記録から、石棺があったということが確認できる。
墳丘は3段築成で、1段目までは研究者が入ることを最近宮内庁が許可した。
陪塚は4基。他に後円部西側の濠に接して無名方墳がある。

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佐紀陵山古墳

Img020日葉酢媛命狭木之寺間陵(ひばすひめのみこと さきのてらまのみささぎ)
前期後半築造
奈良山丘陵から南へ派生する中位段丘の西端に築造された前方後円墳。
隣接する佐紀石塚山陵や佐紀高塚古墳の三古墳の中では最高所に位置しており、最初に築造されたものとみられる。
全長203m、後円部径127m、前方部幅87m。
盾型周濠は、18世紀後半大規模な浚渫・堀削があったと報告されている。 元禄期の文献にも「まはりにからほり有り」と記載されており、築造時は、水濠でなかった可能性がある。
後円部墳頂の埋葬施設は、大正4年に大規模な盗掘を受け、その復旧工事にともない調査が実施された。
埋葬施設は主軸を南北に向ける特異な構造の竪穴式石室。
埋葬施設を内蔵している墳頂方形壇上に家・蓋・盾型の大型器財埴輪が配置されており、これらは器財埴輪の中では最古式に属する。
出土遺物は大型青銅鏡5点(内3点は国産)いずれも径30cm以上。車輪石など石製品22点。
なお、日葉酢媛陵は、野見宿禰によって殉死に代わって埴輪を立てることが奏上されたという埴輪の起源伝説が知られている。

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佐紀石塚山古墳

Img020成務天皇狭城盾列池後陵
前期後半築造
佐紀陵山、佐紀高塚と並んで「佐紀三陵」と呼ばれる。この三陵のうち、本古墳は台地の西端に築かれたためか、墳丘の東と西では数メートルの比高差がある。さらに前方部の長さも拝所をはさんで数メートルの違いがある。西側の全長を計測した場合は220m、後円部径132m、前方部幅112mとなる。このような立地的な制約から陵山より後に築かれたと考えられている。
平安時代、江戸時代の初期と幕末に盗掘を受けており、これらの記録から、内部施設は、竪穴式石室に納められた長持形石棺、副葬品として剣・玉・鏡があったことがわかる。埋葬主体が東西2基並んで存在する可能性もある。
北側に3基の陪塚とされる方墳がある。

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佐紀高塚古墳

Img020称徳天皇高野陵
前期後半築造
佐紀三陵のひとつ。前方後円墳。佐紀陵山、佐紀石塚山古墳と近接のため、立地上の制約からきわめて窮屈で不整形な形状。佐紀盾列古墳群の200m超の大規模古墳はすべて主軸を南北にとるが、この高塚古墳をふくむ中小型墳は猫塚古墳やオセ山古墳のように東西軸で前方部を西に向けている(例外は瓢箪山)。
全長127m、後円部径84m、前方部幅70m、前方部・後円部の高低差4.6mで後円部が高い。
周濠は7ヶ所の堤防で仕切られているが、修陵時に加えられたと見られる。
奈良時代の称徳天皇陵とされているが、称徳(孝謙)陵は、西大寺の西方「高塚」の地に求めるべきとする意見が有力。

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ヒシアゲ古墳

Img025磐之媛命平城坂上陵(いわのひめのみこと ならさかのえのみささぎ)
中期後半、5世紀後半
全長220m、後円部径120m、東部くびれ部には造出がみとめられる。現状前方部正面のみ、水を湛えた2重の周濠が存在するが地形図を見る限りこの2重周濠は後円部まで廻っていたらしい。
現在は仁徳天皇皇后の磐之媛陵に治定されている。
出土する埴輪には須惠質のものもあり、時期が中期でも新しいことを示している。


万葉歌碑
水上池北畔(ヒシアゲ古墳南側)

をみなへし 佐紀沢に生ふる 花かつみ
かつても知らぬ 恋もするかも
(巻4-675 中臣女郎)

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市庭古墳

29平城天皇楊梅陵(へいぜいてんのう やまもものみささぎ)
中期前半築造
全長253m、後円部径147m、前方部幅100mという巨大な前方後円墳であったが、平城宮造営時に前方部が削平。
平城宮造営という国家的工事により先人の古墳を削平したことが「続日本紀」にあるが、それが裏付られた。
残された後円部が平城天皇陵とされているが、考古学的には立証されてない。

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コナベ古墳

Img026小奈辺陵墓参考地(宮内庁管理)
中期前半築造
全長210m、後円部径130m、前方部幅135mで三段築成の墳丘、左右のくびれ部に造り出しがつく。外堤には円筒埴輪列があった。周濠は同一水面。その西側に規則的に配された方墳が5基並び、大型の円墳(大和21号、42m径)1基を挟み、更に4基の方墳がつづく。中期大型古墳の陪塚の典型例として、知られる。
明治時代にウイリアム・ゴーランドによって、整った形の古墳として英国に紹介されている。

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ウワナベ古墳

Img027宇和奈辺陵墓参考地
中期中葉築造、5世紀後半
全長260m,後円部径130m,前方部幅130mで西側に造り出しがつく。周濠の外堤の外側に更に幅10mの外堀があった。
外堤には2重の埴輪列があり、10Mの間に22本の埴輪が検出されたことから、外堤全体で約54,000本の埴輪の数があったと推定される。埴輪には須惠質のものもあり、この時期の大和では最大の古墳である。
6基の陪塚とされる古墳が北側に存在していたが、終戦直後から米軍の付属設備建設のため4基が完全に破壊された。このうちには鉄鋌872本が出土した大和6号墳がある。

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添御縣坐神社

御縣は、古代の天子の御膳を奉る御料菜園です。
高市、葛木(葛城)、十市、磯城(志貴)、山辺、曾布(添)に御縣がありました。
(久米にも、御縣神社がありますが、久米御縣神社は、延喜式祈年祝詞「大和六御縣社」には含まれていません)
なお、奈良市三碓(みつがらす)に同名の神社があります。

添御縣坐神社
鳥居
Rimg2738w800拝殿
Rimg2741w800本殿
Rimg2742w800

説明板 式内神社です
祭神 速須佐之男命 櫛稻田姫命 武乳速命
Rimg2736w800説明板 下つ道の北端、国境に鎮座する手向けの神です
Rimg2737w800

境内に歌碑が2つあります。
万葉歌碑 長屋王
Rimg2739w800歌碑 菅原道真
Rimg2740w800

万葉集巻3 300 長屋王寧樂山に馬を止めての歌
佐保過ぎて 奈良の手向けに 置く幣は 妹を目離れず 相見しめとぞ
菅原道真公が宇多天皇の吉野行幸に従った際の歌
このたびは 幣もとりあへず 手向山 もみじの錦 神のまにまに

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塩塚古墳

Img023国史跡(奈良県管理)
中期前半(5世紀前半)築造
南北軸全長105mの前方後円墳
「松林苑」に取り込まれている。古墳の西側には、「松林苑」の西辺を画する築地の痕跡が良く残っている。本来前方部はもっと高く、周濠が全周していたが、松林苑造営工事で前方部上面を削り、前方部の周濠を埋めたとみられる。
濠の調査では奈良時代の瓦がかなり出土しており、前方部を基壇とした相当規模の建物があったようだ。
1956年の調査で後円部粘土槨から鉄斧15個、鉄鎌9個、刀子1口などが出土。

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瓢箪山古墳、丸塚古墳(衛門戸丸山古墳)

Img021瓢箪山古墳
国史跡(奈良県管理)
前期末~中期初頭(4世紀後半~5世紀初頭)
全長96mの前方後円墳、南向き。
周濠は馬蹄型だが、南西部は丸塚古墳が存在していたため、途切れている。後円部の埋葬施設は不明だが、1913年前方部西側より土砂採取沙された時、粘土槨が発見され、琴柱型石製品が出土している。東側外堤の位置で奈良時代の瓦が混じった溝と、後に松林苑の西を画する築地の痕跡であることが判明する高まりが検出されており、その後の松林苑確認の契機となった。
全体が史跡として整備されている。

丸塚古墳(衛門戸丸山古墳)
瓢箪山古墳の南西の周濠に接している径45mの円墳。
瓢箪山に先んじて築造されたため、瓢箪山古墳の周濠が完形になってない。
1913年大阪電気軌道(現在の近鉄)の工事のため土砂が採取された時、青銅鏡14面、銅鏃19個、刀剣16口等多数の遺物が出土した。
銅鏡は、内行花紋鏡7面、神獣鏡5面、獣形鏡2面。かかる多様な副葬品が出たところから、天神山古墳(柳本古墳群)のように、副葬品のみをいれた古墳の可能性が示唆されている。

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猫塚古墳

Img022前期後半(4世紀後半)
全長約120m、前方部を西に向ける前方後円墳と考えられる。
奈良時代「松林苑」に取り込まれるなど、墳丘は著しく改変され、築造当時初の状態を知ることは困難。この古墳は「松林苑」推定範囲の西南隅にあり、前方部西側外堤が西面築地、南側外堤が南面築地の位置に相当しており、周濠は苑池に、墳丘は築山として苑内に取り込まれていたと推定される。
前方部と思われる地点で1953年の調査で、粘土槨、石釧21個、直刀8口、短剣22口出土している。

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2010年9月21日 (火)

ならやま 万葉の小径

近鉄高の原駅から歩道を西方へ1.4Km、石のカラト古墳から押熊瓦窯跡にかけて、万葉の小径があります。
万葉の歌に歌われた植物を遊歩道の両側に植え、万葉歌と万葉植物の説明が掲示されています。
かつては素敵な遊歩道だったのでしょうが、・・・
草刈など整備はなされていますが、万葉植物のいくつかは枯れて消滅、掲示板もひび割れしているものがあるなど古くなってきており、ちょっと残念です。

万葉の小径 立地 および 万葉植物配置図
Dscn2592

説明板(やまぶき)
Dscn2591

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押熊瓦窯跡

奈良山では、平城宮の宮殿や大仏殿などの屋根瓦が造られていました。
多数の窯跡が発掘され、そのいくつかは、史跡として復元されています。

石のカラト古墳から西に500mほど下ったところで、1972年の発掘調査で、6つの窯跡と瓦工房の跡が見つかりました。
登窯形式の中山瓦窯から平窯形式の音如谷瓦窯へと変化していく中間タイプに属し、歌姫西瓦窯類似の形式です。
1993年に4号窯を復元、その他の窯跡は盛土と玉石で規模と位置を表示し緑地として保存されています。

押熊瓦窯跡(復元保存)
Dscn3604瓦窯跡内部
Dscn3603説明板
Dscn3605


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佐紀盾列古墳群

大和盆地北方に標高100m前後の丘陵が東西に横たわり、山背(山城)との境界をなしています。。
ならやま丘陵です。
浸食により谷が入りこんでいます。
現在国道24号線及びJR大和路線の通る谷間を境に、概ね東側が佐保地域、西側が佐紀地域です。
佐保路、佐紀路という場合は、法華寺を境とし、転害門から法華寺までを佐保路、法華寺から西大寺までを佐紀路といいます。

ならやま丘陵の西側南斜面(佐紀)の尾根筋に古墳時代前期~中期の古墳が築造されています。
東西2Km、南北1Kmほどの範囲に、全長200Mを超える巨大前方後円墳7基を含む多数の古墳が集積しています。
巨大前方後円墳が盾状に並んでいるところから、佐紀盾列古墳群と称されています。
(やや南に離れた宝来山古墳を佐紀盾列古墳群に含める場合もある。)
歌姫街道(下ツ道)で西群と東群に区分でき、西群は4世紀、東群は4世紀末~5世紀の築造と見られています。

佐紀盾列古墳群(出所:近鉄「大和の古墳」)
Img014

近畿の大型古墳は、
 1 盆地東南部の大和・柳本古墳群(行燈山古墳、渋谷向山古墳など) 
→2 佐紀盾列古墳群西群(五社神古墳、佐紀陵山古墳、佐紀石塚古墳など) 
→3 河内の古市古墳群(誉田御廟山古墳など)、和泉の百舌鳥古墳群(大仙古墳など)と変遷。
 佐紀盾列古墳群東群(ヒシアゲ古墳、コナベ古墳、ウワナベ古墳など)は、河内の古墳群と同時期(古墳時代中期)に築造されています。

西群の五社神古墳(仲哀帝妃神功皇后)、佐紀陵山古墳(垂仁帝妃日葉酢媛皇后)は、皇后陵と治定されていますが、佐紀石塚山古墳や宝来山古墳とともに、王墓が河内に移動する前に築造されており、そのスケールからみて大王墓の可能性があります。
一方、東群のヒシアゲ古墳(仁徳帝妃磐之媛皇后)、コナベ・ウワナベ(古語でそれぞれ前妻・後妻の意味)古墳は、王墓が河内に異動後も大和に残っていた大王家の血統を引く有力首長の墓であると考えられ、大王の妃がこれら首長家より嫁ぎ、没後父親の墓に帰葬されたという見方があります。

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2010年9月18日 (土)

石のカラト古墳~佐紀盾列古墳群 散策コース

石のカラト古墳~佐紀盾列古墳群 散策コース
高の原駅→石のカラト古墳佐紀盾列古墳群:五社神古墳(神功皇后陵)→佐紀陵山古墳(日葉酢媛陵)、佐紀石塚山古墳(成務天皇陵)、佐紀高塚古墳(称徳天皇陵)→猫塚古墳→瓢箪山古墳、衛門戸丸山古墳→塩塚古墳→オセ山古墳(マラ塚)→添御縣坐神社→ヒシアゲ古墳(磐之媛陵)→コナベ古墳→ウワナベ古墳→市庭古墳(平城天皇陵)→神明野古墳跡(平城宮跡第2次大極殿跡)→平城宮跡遺構展示館
(リンク表示 当ブログ内の記事にリンク)


より大きな地図で 石のカラト古墳~佐紀盾列古墳群 散策コース を表示

高の原駅~石のカラト古墳 1.4Km 徒歩20分
 バス使用の場合 高の原駅~兜台3丁目 200円 4分 徒歩1~2分
石のカラト古墳~五社神古墳 3~3.5Km 徒歩40~50分
 バス電車使用の場合 
    バス 兜台3丁目~高の原駅 200円 4分
    電車 高の原~平城 150円 3分 徒歩5分
石のカラト古墳の近くに、万葉の小径押熊瓦窯跡がある。
押熊瓦窯跡まで足を伸ばせば、五社神古墳へは、押熊川沿いのコースも考えられる。
バスで戻る場合、最寄りバス停は、精華桜ヶ丘3丁目。

佐紀盾列古墳群は、東西2Km、南北1Km程度の範囲に巨大前方後円墳7基を含む 多数の古墳群が分布する。
五社神古墳からウワナベ古墳まで主な古墳を巡り、平城宮跡遺構展示館まで、5~6Km。
遷都祭平城宮跡会場秋季フェア中(10月9日~11月7日)、平城宮跡遺構展示館から西大寺駅へ無料シャトルバスが運行される(13:00~17:00 15~20分間隔)。


当ブログ過去記事
佐紀盾列古墳群散策記
2009年2月11日 (水) 西大寺~佐紀盾列古墳群巡り
2008年12月 4日 (木) 佐紀盾列古墳群を行く
2008年1月 5日 (土) 佐紀路 散策
2007年3月21日 (水) 松林苑探訪、佐紀佐保路散策
2006年2月15日 (水) 佐紀路散策
添御県坐神社
2007年11月17日 (土) 歌姫探訪

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石のカラト古墳

木津川市と奈良市の境の標高112mの丘陵緩傾斜面に築造された上円下方墳。下の方形部は、一辺13.8m・高さ1.36m、上の円形部は、径9.2m・高さ1.55m。
昭和54(1979)年に、ニュータウン建設に先立って奈良文化財研究所によって発掘調査がおこなわれました。
立地から平城京遷都に関係する皇族の墓ではないかといわれています。

カラト古墳緑地(神功1丁目緑地)
Dscn2583石のカラト古墳
Dscn2585説明板
Dscn2586
「この古墳は8世紀初めの築造と推定され、昭和5654(1979)年の発掘調査で上段が円形(直径約9.2m)下段が方形(一辺約13.8m)の上円下方墳であることがわかりました。下段の表面には、30cm大の石を葺いていましたが、上段の葺石はほとんど失われていました。古墳の中に造られた石室は壁画古墳として知られる飛鳥高松塚古墳と同じ横口式石槨で間口1.15m、奥行2.6m、高さ1.2mあり、15枚の凝灰岩の切石でできています。
 「カラト」の名はこの石室が唐柵に似ていることからつけられたらしく、石室内は盗掘のため、荒らされていましたが、漆塗りの棺が納められていたらしく、漆の破片、金・銀の玉など豪華な副葬品の一部が出土しました。
 葬られていた人物の名はわかりませんが、奈良時代初めの貴族と推定され、平城京の北郊である奈良山丘陵に造られた数少ない終末期古墳として昭和62(1987)年の復原整備の後、平成8(1996)年に国の史跡に指定されています。」(奈良県教育委員会)(現地案内解説板) 
(説明板は、発掘調査時期を「昭和56(1979)年」とあるが、「昭和54(1979)年」の間違いと思われる)

(続き 発掘時の写真など)

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2010年9月16日 (木)

佐紀盾列古墳群 地図

佐紀盾列古墳群(出所:近鉄「大和の古墳」)
Img014

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平城ニュータウン開発前の地図

平城ニュータウン開発に先立つ発掘調査地点を示した地図です。
明治45年発行大日本帝国陸地測量部作成2万分の1測量図を元に作成されています。

奈良山周辺の遺跡
(出所:奈文研「奈良山発掘調査報告Ⅰ」)
Img0022
(明治45年発行大日本帝国陸地測量部作成2万分の1測量図を元に作成)
No1~18:平成ニュータウン予定地内調査地点
No7:石のカラト古墳
No20:音乗谷古墳
3(No2):押熊瓦窯跡

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2010年9月11日 (土)

9月11日 高野街道を行く 長野神社~烏帽子形八幡神社~観心寺

大和路散策の会の9月例会で、高野街道を散策、観心寺を訪ねました。
今日も猛暑の予想のためか、参加者は15名にとどまりました。


より大きな地図で 散策コース を表示

河内長野駅集合。
当初予定していた原町十三仏は省略し、駅前ビル裏側の長野神社に直行しました。

長野神社
Dscn3559説明板
江戸時代には、木屋堂宮、牛頭天王宮。
明治元年に長野神社と改称された。
Dscn3558カヤの大木
幹周り 約4m
高さ 約17m
Dscn3560
本殿 一間社流造り桧皮葺
Dscn3563本殿
正面に千鳥破風と軒唐破風がつく
Dscn3565扁額
Dscn3566

神社傍らにはクスノキの巨木もありました。

河内長野駅周辺で、東高野街道と西高野街道が合流、長野神社の前を高野街道が通っています。
神社南下、すぐ右折れすると、杉玉を吊るした古い家並み、天野酒醸造元です。
Dscn3568高野街道道標
Dscn3569

道なりに進むと、烏帽子公園への登り道がありました。
直進し、烏帽子形八幡神社の鳥居から石段を登って神社に入りましたが、神社境内の公園地図によると、手前の公園登り口から山道をたどり古墳を見て神社横に来ることができたようです。平面地図では昇り降りがわからないが、ちょっと残念。

長い石段を登って
Dscn3570烏帽子形八幡神社本殿
Dscn3572説明板
Dscn3574

烏帽子形八幡神社本殿 重要文化財
Dscn3576烏帽子形八幡神社本殿
Dscn3577入母屋造り桧皮葺
昭和40~41年に解体修理
棟札墨書から文明12年(1480)建立

烏帽子形公園地図
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烏帽子形山の山頂には、楠木7城の1つと伝えられる烏帽子形城跡があり、また、山頂から北方に伸びる尾根の先端には、古墳時代後期と推定される径20mの円墳があります。

古い町並みが残る高野街道 三日市手前
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三日市から府道209号、国道310号をたどり、観心寺に向かいます。
ところどころに建物や樹木の日陰があるものの、強い日射で汗だく、
日陰で休み休みながらも、12時過ぎには観心寺にたどり着きました。
地元ボランティアガイドさんが待ち受けていましたが・・・
別のグループ依頼のガイドさんでした。
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Dscn3593本堂
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観心寺境内の木陰で昼食昼食後、観心寺境内を見学。

建掛塔
Dscn3586後村上天皇桧尾陵
横の階段を登った先
Dscn3588新待賢門院墓
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2時前のバスで河内長野駅に戻りました。
散策距離は5km程度でしたが、暑さと日射でクタクタ。

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2010年9月10日 (金)

9月10日 松阪 本居宣長を訪ねる

飛鳥里山クラブのフォローアップ研修で、松阪に本居宣長を訪ねました。
橿原神宮前からバスで一路松阪へ。
途中工事渋滞で、松阪着は12時近く。
松阪観光ボランティアガイドの案内で、松阪の遺跡を見て周りました

松阪城跡
Dscn3523松阪城跡の碑
Dscn3524説明板
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松阪城跡内
歴史民俗資料館
Dscn3530館内展示 松阪商人のルーツ
Dscn3527勢和村の丹生の水銀を原料とする射和(いざわ)の軽粉で蓄積
運搬に、櫛田川の水運
軽粉は、「伊勢おしろい」と呼ばれ、伊勢神宮御師たちによって全国に流通
最盛期 室町時代

歴史民俗資料館見学後、松阪城本丸跡広場で昼食

松阪城跡内
本居宣長旧宅
魚町にあった旧宅を明治42年に現在地に移築保存
Dscn3534本居宣長旧宅
Dscn35422階書斎
鈴屋(すずのや)
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宣長は古事記伝の研究につかれると、36個の小鈴のついた柱掛鈴を振ってその音色を楽しんでいたそうです。宣長の鈴好きなのを知って、石見国の城主松平公より駅鈴を贈られるほか、たくさんの門人からも珍しい型の鈴が贈られていました。

本居宣長記念館
本居宣長記念館ホームページ http://www.norinagakinenkan.com/
本居宣長記念館では、館長さんの説明を受けました。
飛鳥から研修に来るとのことで、特別に、菅笠(すががさ)日記の飛鳥訪問の箇所を展示していただくなど、配慮していただきました。

「菅笠日記」  入鹿塚~飛鳥坐神社~大原寺
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→菅笠日記原文 本居宣長記念館HP>HP版「ようこそ宣長ワールドへ>すすむ>宣長と旅>すすむ>菅笠日記原文 http://www.norinagakinenkan.com/norinaga/shiryo/sugakasa_hon.html


「大和国中ひとりあんない」
吉野~飛鳥旅行に宣長が持参した大和国概略図
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古地図 添上群
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松阪城跡側
本居宣長ノ宮
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魚町
本居宣長旧宅跡
Dscn3555旧宅跡前の民家
Dscn3556この地方では
翌年まで注連縄が飾られる

Dscn3552松阪市のマンホールの蓋のデザインは、本居宣長の鈴屋に因んでか、鈴でした。

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