カテゴリー「ならやま」の20件の記事

2010年9月27日 (月)

五社神古墳

Img019五社神(ごさし)古墳
神功皇后狭城盾列池上陵(じんぐうこうごう さきのたたなみのいけのえのみささぎ)
前期後半築造
北から延びる尾根の先端部を切断して造られた丘尾切断型の前方後円墳。
全長 275m。後円部径195m、前方部幅155m。後円部と前方部の高低差7.5mで後円部が高い。周濠は鍵穴型、南北の高低差があるため6ヵ所に渡土手状の堤防を築き階段状になっているが、文久の修陵に築造された可能性が高く、古墳造営時には存在しなかったと考えられる。
拝所内には、8基の燈篭が置かれているが、これらは、文久年間(1861~1864)に神功陵として治定されていた陵山古墳にあったものを移設したもの。
埋葬施設は不明だが、幕末の盗掘事件捜査記録から、石棺があったということが確認できる。
墳丘は3段築成で、1段目までは研究者が入ることを最近宮内庁が許可した。
陪塚は4基。他に後円部西側の濠に接して無名方墳がある。

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佐紀陵山古墳

Img020日葉酢媛命狭木之寺間陵(ひばすひめのみこと さきのてらまのみささぎ)
前期後半築造
奈良山丘陵から南へ派生する中位段丘の西端に築造された前方後円墳。
隣接する佐紀石塚山陵や佐紀高塚古墳の三古墳の中では最高所に位置しており、最初に築造されたものとみられる。
全長203m、後円部径127m、前方部幅87m。
盾型周濠は、18世紀後半大規模な浚渫・堀削があったと報告されている。 元禄期の文献にも「まはりにからほり有り」と記載されており、築造時は、水濠でなかった可能性がある。
後円部墳頂の埋葬施設は、大正4年に大規模な盗掘を受け、その復旧工事にともない調査が実施された。
埋葬施設は主軸を南北に向ける特異な構造の竪穴式石室。
埋葬施設を内蔵している墳頂方形壇上に家・蓋・盾型の大型器財埴輪が配置されており、これらは器財埴輪の中では最古式に属する。
出土遺物は大型青銅鏡5点(内3点は国産)いずれも径30cm以上。車輪石など石製品22点。
なお、日葉酢媛陵は、野見宿禰によって殉死に代わって埴輪を立てることが奏上されたという埴輪の起源伝説が知られている。

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佐紀石塚山古墳

Img020成務天皇狭城盾列池後陵
前期後半築造
佐紀陵山、佐紀高塚と並んで「佐紀三陵」と呼ばれる。この三陵のうち、本古墳は台地の西端に築かれたためか、墳丘の東と西では数メートルの比高差がある。さらに前方部の長さも拝所をはさんで数メートルの違いがある。西側の全長を計測した場合は220m、後円部径132m、前方部幅112mとなる。このような立地的な制約から陵山より後に築かれたと考えられている。
平安時代、江戸時代の初期と幕末に盗掘を受けており、これらの記録から、内部施設は、竪穴式石室に納められた長持形石棺、副葬品として剣・玉・鏡があったことがわかる。埋葬主体が東西2基並んで存在する可能性もある。
北側に3基の陪塚とされる方墳がある。

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佐紀高塚古墳

Img020称徳天皇高野陵
前期後半築造
佐紀三陵のひとつ。前方後円墳。佐紀陵山、佐紀石塚山古墳と近接のため、立地上の制約からきわめて窮屈で不整形な形状。佐紀盾列古墳群の200m超の大規模古墳はすべて主軸を南北にとるが、この高塚古墳をふくむ中小型墳は猫塚古墳やオセ山古墳のように東西軸で前方部を西に向けている(例外は瓢箪山)。
全長127m、後円部径84m、前方部幅70m、前方部・後円部の高低差4.6mで後円部が高い。
周濠は7ヶ所の堤防で仕切られているが、修陵時に加えられたと見られる。
奈良時代の称徳天皇陵とされているが、称徳(孝謙)陵は、西大寺の西方「高塚」の地に求めるべきとする意見が有力。

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ヒシアゲ古墳

Img025磐之媛命平城坂上陵(いわのひめのみこと ならさかのえのみささぎ)
中期後半、5世紀後半
全長220m、後円部径120m、東部くびれ部には造出がみとめられる。現状前方部正面のみ、水を湛えた2重の周濠が存在するが地形図を見る限りこの2重周濠は後円部まで廻っていたらしい。
現在は仁徳天皇皇后の磐之媛陵に治定されている。
出土する埴輪には須惠質のものもあり、時期が中期でも新しいことを示している。


万葉歌碑
水上池北畔(ヒシアゲ古墳南側)

をみなへし 佐紀沢に生ふる 花かつみ
かつても知らぬ 恋もするかも
(巻4-675 中臣女郎)

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市庭古墳

29平城天皇楊梅陵(へいぜいてんのう やまもものみささぎ)
中期前半築造
全長253m、後円部径147m、前方部幅100mという巨大な前方後円墳であったが、平城宮造営時に前方部が削平。
平城宮造営という国家的工事により先人の古墳を削平したことが「続日本紀」にあるが、それが裏付られた。
残された後円部が平城天皇陵とされているが、考古学的には立証されてない。

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コナベ古墳

Img026小奈辺陵墓参考地(宮内庁管理)
中期前半築造
全長210m、後円部径130m、前方部幅135mで三段築成の墳丘、左右のくびれ部に造り出しがつく。外堤には円筒埴輪列があった。周濠は同一水面。その西側に規則的に配された方墳が5基並び、大型の円墳(大和21号、42m径)1基を挟み、更に4基の方墳がつづく。中期大型古墳の陪塚の典型例として、知られる。
明治時代にウイリアム・ゴーランドによって、整った形の古墳として英国に紹介されている。

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ウワナベ古墳

Img027宇和奈辺陵墓参考地
中期中葉築造、5世紀後半
全長260m,後円部径130m,前方部幅130mで西側に造り出しがつく。周濠の外堤の外側に更に幅10mの外堀があった。
外堤には2重の埴輪列があり、10Mの間に22本の埴輪が検出されたことから、外堤全体で約54,000本の埴輪の数があったと推定される。埴輪には須惠質のものもあり、この時期の大和では最大の古墳である。
6基の陪塚とされる古墳が北側に存在していたが、終戦直後から米軍の付属設備建設のため4基が完全に破壊された。このうちには鉄鋌872本が出土した大和6号墳がある。

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添御縣坐神社

御縣は、古代の天子の御膳を奉る御料菜園です。
高市、葛木(葛城)、十市、磯城(志貴)、山辺、曾布(添)に御縣がありました。
(久米にも、御縣神社がありますが、久米御縣神社は、延喜式祈年祝詞「大和六御縣社」には含まれていません)
なお、奈良市三碓(みつがらす)に同名の神社があります。

添御縣坐神社
鳥居
Rimg2738w800拝殿
Rimg2741w800本殿
Rimg2742w800

説明板 式内神社です
祭神 速須佐之男命 櫛稻田姫命 武乳速命
Rimg2736w800説明板 下つ道の北端、国境に鎮座する手向けの神です
Rimg2737w800

境内に歌碑が2つあります。
万葉歌碑 長屋王
Rimg2739w800歌碑 菅原道真
Rimg2740w800

万葉集巻3 300 長屋王寧樂山に馬を止めての歌
佐保過ぎて 奈良の手向けに 置く幣は 妹を目離れず 相見しめとぞ
菅原道真公が宇多天皇の吉野行幸に従った際の歌
このたびは 幣もとりあへず 手向山 もみじの錦 神のまにまに

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塩塚古墳

Img023国史跡(奈良県管理)
中期前半(5世紀前半)築造
南北軸全長105mの前方後円墳
「松林苑」に取り込まれている。古墳の西側には、「松林苑」の西辺を画する築地の痕跡が良く残っている。本来前方部はもっと高く、周濠が全周していたが、松林苑造営工事で前方部上面を削り、前方部の周濠を埋めたとみられる。
濠の調査では奈良時代の瓦がかなり出土しており、前方部を基壇とした相当規模の建物があったようだ。
1956年の調査で後円部粘土槨から鉄斧15個、鉄鎌9個、刀子1口などが出土。

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